おもしろいのはいつもと同様なのですが、今回は、ちょっと考えこんでしまいました。
先日読了したばかりの司馬遼太郎作品には、「作者の見解が前面に出てき過ぎてちょっと興が削げる」というような感想を抱いたにもかかわらず。
同じように「当時は実はこれこれこうだから、このあたりの内実はこれこれこう」と書かれても、なぜか宮城谷作品では、物語世界の外にはじき出された感が少ないのが不思議です。
まったくない、とは申しません。やはりたまに「あー、こんなの流してほしいのに」と思います。事実としての妥当性とか、史料の比較検討とかいった「作業をしている小説家」の存在を意識させられる文章があるせいで、わたしという読者から、物語が遠ざかってしまうことがあるのは、否定できません。
それでもやはり、わりと気にせず読めるのは、なんでかなぁ……とすごく不思議に感じたのですが(とくにこの『管仲』の下巻は、これはないだろうと思うくらい現代の視点からダーッと書かれている箇所があり、そこでひっかからない方がおかしいと思うのです。なのに、なぜか大丈夫)、……よくわかりません。
気になるので考えつづけてるんですけど、やはりわからない。うぬぬ。
管仲 下 著者名:宮城谷昌光(著)
出版社:文藝春秋
出版年:2006.07
ISBN :4167259184
あとがきに、冒頭さえ書ければあとはもう最後まで書ける……という著者の言葉があって、かなり羨ましいです。わたしは、冒頭が書けてもダメなんですよー。最後が見えないと。
冒頭もたまに「見える」ことがあるんですけど、きっちり見えて、ちゃんと書けても、それが最後まで持続しないこともあるので、冒頭だけでは信用できないのです。修行の違いでしょうか。
