まず、これ。
現代の作家と読者の関係といふものは、多くの場合、きはめて一方的なものである。作家はほとんどモノローグのごとくにして言葉をつむぎ出し、読者はそれをはるかかなたから、活字になつたものとして読む。もちろん、なかには、作家があらかじめ読者の反応をさまざまに予想し、先取りして書くやうな場合もあるが、現代においてはそれは「大衆作家」あるいは「エンターテインメント系作家」のすることと考へられてをり、高級な文学になればなるほど、モノローグに近いものでなければならないと思はれてゐる。
長谷川三千子『バベルの謎』中央公論新社(1996年)、p.265
強調部分、本来は傍点ですが、ウェブ文書としてルビで傍点出したくないので(行間がズレてたいへんみっともないので、可能な限りは使いたくありません)、強調タグで。
エンターテインメント作品をものするには、読者がこれを「読んだときにどう感じる(と想定される)」かが大きな問題となるわけですが、これを「読者とのかかわりかた」として認識したことがなかったので、自分の不明を恥じました。
考えてみれば当たり前のことですが、その当たり前をズバリと端的に表現するのは、難しいことですよ。
とても腑に落ちる文章だと思い、また、そのことについていろいろと考えてしまいました。そうやって、読み手が望むもの、よろこんで受け入れるだろうものを想定し、書いていくことに、商品としての意義は大きくなっていくわけですけどね。
「高級な文学」については、ちょうど今、児童文学家の芝田勝茂さんが、日本の私小説文化について大きな示唆を、いや指摘をする文章をブログにシリーズで書いておられます。あわせて読むと、なお興味深いです。
芝田さんのブログは過去ログを読みづらい設定なので(なぜ「前の記事」しかないですか? 「次の記事」リンクも有効にしてくださらないと、古い方から順番に読めないですよ? もったいない!>芝田さん)、一応、これを書いている時点までで公開されているぶんにリンクを。
極私的ファンタジー試論
その1
その2
その3
その4
その5
ちなみに本書の扱うテーマ本来の文脈においては、上掲の引用文は、創世記の著者のひとりであるヤハウィストの生きた時代においては、物語とは語り手と聞き手の距離がもっと近いものだったはずだ──と、当時の状況を考察する流れとして、今の我々とは違うんだという差異を認識させるためのもの。と、いったところだと思います。
これもまた「あっ、なるほど」なわけですけど。
あと、もひとつ。これは本論が終わってからの「ただし書き」ですが、
そもそも、書くこと読むことは、話し、聞くのとは違つたかたちでの、「言葉」とのかかはりである。人が話し、聞くときは、ことばは時間そのものと共に進み、流れて行く。それに対して、書くことば、読むことばには、常に時間の流れからのずれがある。そして、そのずれのうちで、われわれは書きながら考へ、考へながら読むのである。
同『バベルの謎』p.454
なぜ「歴史的仮名づかひ」を選択して記したかについて。強調部分、本来は同様に傍点です。
これをみて思ったのは、こうしていわゆる「オン書き」しているようなウェブの文章と思考のスピード、その伝播の速さなどについてでした。
明確な考えにはまとまりませんが、今の読者(というか、読者に限らず「人」なんですけど)は、素早く配信されるものに慣れているから、迂遠な言葉づかいはどんどん受け入れられづらくなるのだろうなぁ、とか。
ライトノベルなどは、「今」の感覚が重要なので、距離感をもつ「歴史的仮名づかひ」はそぐわないだろうなぁ、とか。
あと、自分の文章ですが、やたらと変な言い回しや、日常生活ではおよそ出現しっこない語を多用するのは、たぶん、自分が舞台にとっているその「場」への距離感を演出するためのものなのかもしれないなぁ、などとも思うのでした。
わたしは自分の書いているものを「あり得ない」とつねに感じながら書いていますし、逆に、だからこそ、慎重に「これならあり得るかも」と束の間でも信じさせるように、設定や表現を詰めていくわけですけど。
でも、ファンタジーにそこまでの距離を求めない読者にとっては、すごく無駄(むしろ無用、有害)な気くばりになるのかもしれないですね。
といって、やめるわけじゃないですよ? やめたら、それは、偽の妹尾さんなので(笑)
もちろん、現代日本を舞台にすると、必然的に表現ももうちょっとフランクになる(あるいは、なっていないときは、そうするべき)ですが。
